昭和50年11月15日 朝の御理解



  御理解 第46節
 「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ」
 
 これ程本当な事はない。痛いのが治ったのが有難いのじゃない。何時もまめなが有難い。信心とはそういう愈々より本当な事を教えて、より本当な生き方所謂より本当な人間の道、まあ幸せになる道とでも申しましょうかね。幸福になる道を教えそれを導いて行くのが宗教だと思います。本当な事になれば、成程本当なおかげ本当な幸福が得られる。所が難しいのです。何時もまめである、何時も元気であると、本当に元気である事の有難いという事が忘却されてしまう。忘れ去られてしまう。
 そして痛い事が起き来て痛い事を縋り願って治ったら「おかげ頂いた」と言うて喜ぶ。だからそれもおかげなら、これもおかげであるという事が分る。私はこの四十六節と云うのは、是程本当な事はないと云う事。だからどれ程本当の事を聞かして頂いてもです、それが実感としてそれが感謝の心になって来なかったら、矢張り本当な事を分っておるとは言えないのです。
 信心はそこの所をです、愈々あらゆる角度から又は日々の信心修行の中から、その修行又は事柄を通して成程成程と実感をもって有難い事を分らせて頂くのが、信心の言わば教えだと思います「痛いのが治ったので有難いのではない、何時もまめなが有難いのぞ」と、誰でもがほんにそう所じゃないと思うでしょう。けれどもそんならそこに本当にそれ程しのおかげはないおかげを頂きながら、おかげをおかげと気付かなかったり、言うなら喜びの心が湧いて来なかったらね、分っていないのと同じです。
 だから信心とはその本当な事を教えて本当の喜びを頂かして有難いおかげをつきぬおかげを下さろうとする、そういう道づけをして下さるのが御教えだと思うんです。今朝から、御神前に出ましたら、湖月堂の栗饅頭というテレビでコマーシャルをやってます。湖月堂の栗饅頭、そして何とかの栗の味という。そして栗饅頭を二つに割ると中に栗が入ってますがね。湖月堂の栗饅頭、小倉の湖月堂の栗饅頭は大変有名です。普通どこにも栗饅頭はあるのですがね。
 それは栗の形をしているというだけであったり、色合いが栗饅頭の色をしてるというだけであってです、中には普通のあんこでしょう。それは本当は栗饅頭じゃないです。本当の栗饅頭というのは、中に栗が入っておるから栗饅頭なんです」割って見なければわからない。そのお知らせを頂いてから、今日はこの四十六節を頂きましたからです、只今聞いて頂いた様な事を思ったんです、成程これ程本当な事はないよと「痛いのが治ったので有難いのではない。何時もまめなが有難いのぞ」と。
 成程それ所じゃない、それがほんな事と分るでしょう。ある時に新聞関係の人が、金光教を見に来た。そして金光様話をのいるいろ聞かせて貰うた。何十年間という長い間、朝の四時からの御神勤。とても人の世に、またとこう云う事があられようとは思われん程しの、厳しい御修行しておられるのを聞かして貰うて、本な事じゃろうかと思うた。そして一日、そのどっか隙があればという気があったでしょう。金光様が朝の四時から午後の四時までじっとお座わりになっておられる。
 そして四時の御祈念の時にゃ、ここのお扉が全部閉まってしまう。虎窓になっておりますね昔の。そしてその新聞記者の人が、金光様が御祈念をしておられる姿を格子虎窓から、こうやって眺めたんです。そしたらもうそれこそ一心不乱に御祈念をなさっておられる、その姿に触れて「これは本なもんだ」と言うて帰ったそうです。「人見せじゃない是は本当なもんだ」と。だからねその内容に本当なものがなからなければ本当なものではないし、又それが本当のものとして現れて来る。
 それを私はおかげだと思うです。ゆうべの御祈念に、末永先生が当番で奉仕しとりました。御祈念が終わって御理解が始まりました。ここん所ばらぁっとして御広前いっぱいにおる。何時も夜の御祈念の時はそうなんです。私昨日は「さあ皆ここに集まんなさい」と言うて、右の御結界に皆こう集まりました。本当にお話を伝える者も聞く者も、それの方が頂きよいであろうし、又お話もねああ聞いて下さってあるんだと思うたら、矢張り聞く者がお話を聞き出すと言われるくらいに素晴らしいお話をしていました。
 お話の時に隅の方におるなら、もう本当にやっぱりたよりがないですなぁ。そういうお話を、中に昨日こんな話をしていました。この二十三日が末永先生の所(勇先生)の秋の教祖御大祭です。昨日、末永先生から電話が掛って来て、あちらに祭員が足りないので、建夫を祭員にお願い出来んだろうかと云う事でした。だから「よい所じゃないですよ」と言うて、行く事を依頼を受けて二十二日から立つ様にしてました。
 それで昨日丁度四時の御祈念に立とうとしている時に、末永先生がここにやって来まして、「先生、今度二十二日の夜から発たせて頂きたいと思いますけれども、まだ信太郎が出来ましてから、まだ一遍も親元に連れて帰っとりません。それで家内子供を連れて公子さん信太郎さんを連れておかげを頂きたい」とこう言うのです。だから私は「はいお願いさせて貰いましょう」と言うて、もうすぐ四時の御祈念でしたから、四時の御祈念に一番先にその事をお願いさせて頂いた。
 そしたら先生が、どう云う事を言うておるかというと、この事をお願いしたい、御取次を頂いたら、親先生がよい顔をなさらなかったと言う訳なんです。そこで考えたと言うのです「実は子供を見せに行くのでなくて、公子が日々あれだけの修行させて頂きよるから、そして大変魚が好きだから、一つ公子孝行言うなら奥さん孝行に、腹一杯魚も食べさせたいという思いが第一でした」と言うのです「私の方の両親はよその両親とちょっと違って、孫の顔を見て楽しむと言う様な性格じゃない。
 だからそれはまるきり言うならば嘘だった。実を言うたら公子を連れて行きたかった。壱岐の事ですから、新鮮な魚が沢山ありますから、その新鮮な魚を腹一杯食べさせたい、それで御取次を頂いたら、親先生がよい顔をなさらなかった」実際はよい顔も悪い顔もない。全然心にも、うんそれも本当に御両親も喜ばれるだろうから、よい外になかったです実際は。所がさあ自分の心にそういうものがあるから、よい顔に見えなかったんです。皆さん、金光様の御写真を拝まれる時に、それを感じられはせんですか。
 私は毎日朝三時半に出て参りますと、天地の遥拝を済んで、金光様の御写真にご挨拶を申し上げる。これは不思議です。毎日ご表情が変わるです。そして言うならばこちらの心次第に、金光様の表情が変わるのに、私は驚いております。何時でも私が普通の顔しとっても、自分の心の中にです子供じゃない、嫁御の方に重きを重点を置いておった事が心にかかっておるから「親先生は今日お届けしたばってん、よか顔をせっしゃらじゃったけんで、やっぱり止めとこうと言う事になった」と言う事を話しておりました。
 ですからね例えばその事ひと言でもです、本当な事と本当でない事は、自分の心次第でわかるのです。心に有難いと感じたら本当な事です。心に引っ掛ったらそれは本当な事じゃないです。心にどんなに形の上で素晴らしい事であっても、心に有難いものを感じなければ、心にそれが何か引っ掛る様な事があったら、それは本当の事でないと、先ず思わなければいけません。
 それは信心が薄かったなかった時にはそれこそ、こげな事では神様の御気感に適わん。言うならば、神様の御気障りになる事、神様の気障りという、お神様のお気障りになるという事だと思うておったような事でも、むしろその事に対して、お礼が言えれる様になったら、それは本当な事であり、御気障りと感じる時には、それは本当の事ではないと云う事ですから。信心の進展と言う事は大変な事なんです。
 こんな事はいけない事、神様の御気障りになろうと思う時には、矢張り神様の御気障りですからおかげを頂きません。それが同じ事柄でありましてもそれに御の字を付けて、お礼が言えれる様な心の状態が開けて来たらです、それは本当の事だ。もう実を言うたらこの世の中に本当も嘘もないです。自分の心の中に有難いと頂ける事だったら、まずは本当の事だと頂くべきだと、いや頂いてよいと思います。
 どんなに本当の事の様な事をしておっても、心のこん中にゃこんな事じゃ済まんと思っても、という時には、先ずは本当の事じゃないと言う事なんです。自分の心を割って見て、果たして栗が入っておるかと。栗も入っとらんのに、只饅頭の恰好だけしておる様な事ではなかろうか。思うて見なければいけませんね。四十六節というのは私は、何時もお徳を受けられるチャンスという風に感じます。「四十」と云う事は何時もと言う事です。「六」と言う事は、何時も徳と言う事を頂きます。
 四十お徳を受けるチャンスは、何時も目の前に転がっておるのですけども、それをお徳を受けるところまでに心を育てていないのです。昨日午後の奉仕をしておる所に、久留米の佐田の若奥さんが参って見えました。それが矢張りとにかく、もう明日まで待てん。ちょっと早ようお礼に出なければと言う事で御座いました。今日はもう朝から有難うして有難うして、ある普通でならばいらいらする様な問題であっても、それがもう有難うしてたまらん。去年火事に遭いました時にもうそれこそお母さんが。
 「あんたがごとそげん火事に遭うとってから、ニコニコしよるなら、あそこの奥さんはちっと間違うちゃなかろうかと人が言うばのち」言う位にです、何か知らんけれど、嬉しい心が湧いてしようがなかった。倉庫が丸焼けになった時に、沢山の商品がいっぱい詰まっとった。それを丸焼けにした時にです、もう有難うして有難うして、お礼に確かに見えた時には、もう何か余計何かおかげ、もう何か嬉しうして堪えんと言う様にして入って見えました。私が控えに下がっておりました。
 だからちいとオーバーじゃないじゃろうかと思うくらいでした。所が私は昨日、佐田さんが言われるのに「先生あん時のごたる喜びとまで行かんけれども、今日やっぱりああいう喜びを感じます」と言わっしゃる。それでまあ、あの時の喜びは本当のものじゃったばいのと、私は昨日改めて思いました。それはね本当の事が分ったら、それが大きい事であればある程「おかげを頂いて有難し」と言うもんだけしかない。そういう時がわたしは本当なものだと思います。
 信心の心が進展して行く、育って行くと言う事は素晴らしい事です。いわゆる本当から本当を求めて、求め続けると云う事です。四十六節というのは普通の者なら悲しむ事をです、本当に涙が出る程有難かったという時に、それが徳にならん筈がないです。所がお互いがそれを徳の世界にまで引き上げきらずに、只難儀は難儀と見て只「おかげを頂きたい」と言うてお願いをして、おかげを頂くと言うだけでお仕舞いになっとる。
 これではお徳になる筈がありません。折角神様がお徳を受けさして下さろうとする働きをです、働きと感じた時です。先日の美登里会に、熊谷さんが発表しとられるように、どう言う事でも、神様がより本当の事を分らせて下さろうとする御神意、御神慮以外にない。そういう喝破が出来た時にです、そういう悟りが出来た時です、もうあなたの周囲に起きて来る全てが力を受ける。
 お徳を受ける材料以外にないと言う事になって来るのです。「痛いのが治ったので有り難いのではない。何時もまめなが有難い」是はもう本当に上に露出しておる様な素晴らしい有難さなのです。健康であると言う事、しかも一家中が健康であると言った様な事はとても、ほんなこて一遍お礼参りせにゃおられん、というものでなからねば本当の事じゃないです「もう、おかげと思うとります」と言うくらいの事じゃいけんです。どうかあってお願いをする。医者から見放されたけど助かった。
 おかげでという時には広大なおかげであり、有難いおかげであると勿論おかげです。けれどもそれもおかげだけれども、何時も平穏無事である時は、もっともっと素晴らしいおかげだとわかると言う事が、お道の信心です。そこでです今只今皆さんに聞いて頂いたような内容が、段々育って来る出来て来る。そこに信心の稽古が、いかに日々大事にして行かなければならないかと言う事が分ります。もう一生掛りでその事に取り組んで行く以外にはないのです。
 四十六節、始終徳をプラスして行く所のチャンスに恵まれて、お互いおるのですけれども、それをお徳にして行き切らんと言う所にです、まあだまあだこれは大変な、感じの上ではわかっておる。理屈の上ではわかっておるけど、それが本当のものでないと言う事を分らなければならん。いうならば栗饅頭ではあるけれども、中に栗が入ってないと思わなければならない。
 そこに有難いというものが感じられた時こそ、本当な言わば湖月堂の栗饅頭と言う事になるのじゃないでしょうか。金光様の御信心、御態度というものがです、それこそ本当の事と思われん程しの修行をお続けになっておられるのが、全然信心のない者にです、これは本当のものだという程しの内容を、お互い目指さして貰うて、信心の稽古をさして貰わねばいけませんね。
   どうぞ。